パーソナリティ障害の私が社会復帰するまで その1
私はパーソナリティ障害である。
そう診断されて約10年、仕事を失い一時は生活保護を受けるまでになった。精神科へは今も通院を続けているが再度仕事を得て、晴れて生活保護も打ち切りになっている。
ある日上司から「あなたがどん底から復活した話を同じ境遇の人たちに向けて書いてみないか」と言われ、一歩踏み出すきっかけになってくれればと思い書いてみることにした。
3回にわたってココに掲載していきます。
■高校を卒業するまで
私は両親、姉2人、父方の祖母がいる家庭に昭和49年に生まれた。
私が生まれて間もなく、父は転勤で県外に単身赴任となる。 祖母はなぜか母を嫌っていて、お金の管理は全て祖母が行い母にお金を預けることはなかったのです。そんな祖母に父は何も言わなかったし、言えない人でした。 祖母は、私が母の不倫の子だと言っていつも責め立てていましたが、そんな事実はなく単なる嫌がらせ。 祖母は家に満足のいく生活費を入れることはなく自分の事のみにお金を使っていたので家計は常に貧しい状況でした。
5歳の頃、父が単身赴任から戻ってきた。それから父と祖母による虐待が始まった。
父は仕事での失敗があったりするとその鬱憤を晴らすのによく母に当たり散らしていました。それでもまだ満足できないと、私たち姉弟にも当たり散らしていた。特に私には殴る蹴るの暴力があった。 父は下戸でアルコールもタバコもギャンブルすらやらない人、シラフで家族に虐待を繰り返す、そんな人でした。 祖母は外孫をとてもかわいがり、よく小遣いをあげていたのを記憶している。私たち姉弟には小遣いをくれた記憶はなく、それどころか貰ったお年玉は全部祖母に取られていた。 母はその後パートで働き出したがその給料も祖母に取り上げられていた。祖母はなんとそのお金で出前を取って自分とお茶飲み仲間におごっていたりもした。 父と祖母からの虐待はあったが、母はいつも守ってくれていたのが唯一の救いだった。 私は虐待のない場所を求めて、母のパート先によく行っていた。そこの人たちはごく普通に接してくれ、また母方の親戚が守ってくれることもあった。
小学校に入学したが勉強にはまったく興味が湧かなく、特に算数が苦手で公式を覚えることができなかった。今思えば学習障害(LD)だったのかもしれない。 担任教師からは勉強も出来ず、授業も邪魔するので問題児扱いされていた。学年が上がるにつれ授業には更についていけずに、今でいう所の学級崩壊をさせる存在になっていた。
比較的勉強ができる姉2人と比較され、よく「お姉ちゃんは勉強ができるのに、なんで出来ないんだろうね?」と否定されることが多くなっていった。 土曜日は午前中のみ授業があったが給食は出ない。でも家に帰っても食べる物がなかったので、給食のない土日祝日が来るのがとても怖かった。 週末になるとよく母の兄の家に逃げるように行っていた。年の離れた従兄はよくドライブに連れて行ってくれ、問題児扱いにされず虐待もない平和な世界だった。 友人関係は同級生よりは、中学や高校の悪いグループとつるむ事の方が多くなり、刺激的で楽しかったと記憶している。 中学校に入ると反抗期のまっ只中で親が学校から呼び出されることもよくあった。他校に喧嘩を売りに行ったりもしてその結果、父からの暴力に対してやり返すことも覚えた頃。 そんなこんなで父からの暴力はなくなりました。しかし父と祖母からの言葉による心理的虐待が収まることはありませんでした。
入学した高校は英語の授業ではアルファベットの大文字と小文字、数学は足し算と引き算から始めるような学校でした。 でも真面目な人は少数で、不良が多数を占めていたので自分には正直居心地がよかった。 家にはほぼ帰らないような状態が続き同級生や先輩の家を転々として生活していた。 家に居たくないといった理由で近所のファミリーレストランでアルバイトを始め、卒業まで3年間続けることができた。
卒業後は専門学校に行きたかったが家が貧乏なので断念し、やむを得ず親元を離れたいだけの理由で、東京本社勤務と言われた会社に就職をすることになった。