パーソナリティ障害の私が社会復帰するまで その2

■社会人になる 

勤務は東京本社と言われていたが、蓋を開けてみると千葉の営業所勤務になり一気にやる気が削がれた。どうにもやる気が出ず仕事を覚える事も出来ないまま5カ月が経過した頃、高速道路事業への転勤を言われた。拠点が仙台だったので、それを拒否し退職した 

次に行ったのがテレフォンアポインターの仕事歩合制で給与がよくやりがいがあった頑張って月100万円近い給与をもらっていたが何故か突然やる気が湧かなくなり辞めてしまった。 その次が、実家近くの工場。人付き合いもそこそこで、自分のやりたいことをやれる環境だったためか6年以上勤めることができた。 仕事中のアクシデントで左足を骨折し入院することに同室となった人は、大声でひとりごとを喋ったり、寝言で叫んだりする人でした そんな病室は居心地が悪く喫煙所でタバコを吸うことが多くなっていきました。そんな中ある女性と運命の出会いがあり退院後はすぐに同棲を始めることに。生まれて初めて争いのない平和な日々だったと思う。 会社では設計への異動を命じられたが経験もなければ知識もない、教育してくれる人もいない、そんな状況で自分には出来ないと悟り、6年以上勤めた会社を設計に移ってからわずか1カ月で辞めてしまいました。 それ以降は、派遣会社を転々として、嫌なことがあれば逃げるといった生活を繰り返していた。 

■心の崩壊 

29歳の時に母が脳梗塞で他界した。その時父は「お母さんはお前が殺した」と信じられない言葉を私に吐いた。自分の中で何かが壊れたのが判った。 追い打ちをかけるように同じ年に結婚を考えていた女性が白血病で他界した。その時も父から「お前と関わるとみんな死ぬんだ」と言われ、もう完全に心がぶっ壊れた。。。 

その日から眠る事が出来ないまま3カ月が過ぎある精神科を受診不眠症という診断で、薬を処方されたが壊れた心は治ることがないまま時だけが過ぎていった。 医師はあまり話を聞いてくれずに薬を強くしていく対処療法だったため、不信感が生まれ別の病院へ転院することにした。 その病院の待合室で入院患者に絡まれたのがきっかけで、ここは本当にヤバい人しか来ちゃいけないんだと思い、また別のクリニックに再度変えてみた。 

そこの医師は時間をかけてじっくり話を聴いてくれるので壊れた心が少しずつ回復してきているのが自分でもわかった。 しかし父から「キチガイの病院なんて行くな!みっともない!!」と言われ通院すら許されない状態になった。この時に完全に心が死んでしまった。 

母の死がきっかけで家庭崩壊してしまった我が家族がその後どうなったのかはわからない。父とはそれ以来会っていないし、連絡先さえ知らない。二人の姉もどこで何をしているのか分からない知ろうとする気さえ起きない。。。 

 

■生活保護 

病院へ行くことが出来なくなったので、また派遣会社で働くことにした。場所は福島、父から離れたいがための行動であった。 2008年リーマンショック不況であえなく派遣切りとなり職を失った仕方なく仙台に戻りシェアハウスに入居し、仕事を探す日々が始まった。 収入もなく、預貯金がほぼ底をつく状態となりついに生活保護を受給することになってしまった。 生活保護を受給すると、税金の免除、病院代も支払わなくていいなどの恩恵を受けるが、65歳未満だと就職活動をしないといけない前提がある。 当時、不眠症、更に腰と背中の痛みで職探しもままならない状態の私は、体調について役所のケースワーカーとよく喧嘩をしていた。 その後も不眠は続き、クリニックに通院する度に薬は強くなっていった。 ある日、「うちではそんなに強い薬は出さない。気合と根性があれば眠れる」と言われ医師不信になっていき治療も途中で放棄していました。 その後も眠れずにイライラの日が続いていたがいつも行っていた整形外科の受付の人に「先生の旦那さんの所に行ってみたら?」と言われた。 “オトナハミトメテハクレナイ”私の中で幼少期から続くこの思いは当時増幅されていた自暴自棄になっていた私は行ったって否定されるだけとの思いしかなかったが、受付の人の必死の説得により通院することになった 

今も通っているそのクリニックでは「パーソナリティ障害の攻撃型」に分類されるとの診断がされた。 そこで初めて自分は障害者だと理解した。 診断書には凶暴性ありとの記述もあった。 幼少期の人格形成時に行われた虐待から発展したものだと考えられます。 その診断の後に障害を隠したままある工場にたまたま就職できたのだが、持ち前の凶暴性が発揮されてしまい、上司とよく揉めていました。 経営不振を理由に優秀であってもパート職員が解雇されることになり、それにも憤りを感じて狂暴性はさらに増幅されていった。 毎日のように繰り広げられる課長とのバトル。そしてあの東日本大震災。 パート職員がいなくなり人の3倍仕事を抱え込むことになりました。 その上に被災した別の下請けの仕事も回ってきて仕事量が更に3倍くらいに増え、完全にキャパシティオーバーとなってしまった。 よく課長からは「リーダーにしてやったのだからその分働け」と言われ続けていた。その度に「こちとら馬車馬じゃねぇんだからなが口癖になっていた。 我慢の限界がきてこれ以上課長とトラブルになるのも面倒になり退職を決意。 係長からは何度も「考え直せ」と言われたがリーダー手当が3,000円のところ課長は100,000円も手当が付きとても馬鹿らしく思えて仕方がなかった。 その後は再度生活保護を受給し目的もなくプラプラと自暴自棄な生活をしていたが、小遣い欲しさで行った就労体験の花屋である公益財団の人たちとの出会いがあった。 自分のことを肯定してくれる人たちと出会うことによって、このあと変化していくことになるのです 

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